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2016年12月

2016年12月31日 (土)

「108句(苦)厄落とし・煩悩払い 1人句会」 最終回」

フィナーレ(ww)です!
年越しには少し早いけど、晩酌してこれから一眠り。

101 - くるぶしの尖つたあたり冬銀河
102 - はなびらの色かもしれず寒の月
103 - 窓の中にはまた窓が寒晴るる
104 - 冬霧やこの先蒼き闇つづく
105 - 国境のいかがはしさを鷹越える
106 - 首すぢに紅の光りて雪女郎
107 - 雪をんな水のゑくぼとくちびると
108 - 生きてゐるゆゑに動かぬ冬の蝶

終わりました。世間ではこれから除夜の鐘である。^^);

句を読み返してみると、書き飛ばした感もあるし、季語を勘違いしたものもある。
でも、それなりの達成感。
なんだこりゃという句もあるが、おお、という句もあるような気も少しだけ、している。

たぶんこの108句を推敲し、30句ぐらいに絞ればいいかもしれないが、
そこは年末のイベントということでお許しを……。

    *

私は文学部に6年いた。その間、文学に専念したかというと、夜間学部だったから昼間は働いていた。
そのせいでもないが、学業は中途半端。
そして就職した会社が、中小企業経営者向けの雑誌をつくっている零細出版社である。
経済、経営、税金、法律……さっぱりわからない。
「決算? 日経新聞? 何ですかそれ……」といった調子である。

「これはまずい」と思って、何もかもを仕事中心にシフトした。
小説などを読むこともなくなったし、詩や日記も書かなくなった。
その代わり日経新聞、日経産業新聞などを隅から隅まで読んだ。
そうやって「四股を踏んだ」ことが、ビジネス書づくりの足腰を鍛えたのかもしれないと、今は思う。

だが、中年になり改めて詩や俳句をつくるようになったとき、
自分の感性が若い頃とは比べものにならないぐらい無くなっていることに気づく。
「もっと若いときに俳句を始めていればなあ」とも思ったが、そうすれば仕事は中途半端になっていただろう。

20代には20代の俳句があり、60代には60代の俳句がある。

――焦らずゆっくり歩いて行こう。

    *

2日あまり、お付き合いいただいたみなさん。来年もよろしくお願いします。
素晴らしい一年でありますように!



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「108句(苦)厄落とし・煩悩払い 1人句会」 第七弾」

あと少し!!

ここまでくれば、終わったようなものだ。
さて……これで厄払いが出来るだろうか。余計な煩悩は払えるだろうか。

いずれにしてもまだ63歳(来年2月に64になる)。
たしかに年の割には弱ってきたが、まだまだ「アクティブシニア」である。

とはいえ、今年は本当につらい、しんどい一年だったなあ~。

91 - その先に雲の広がり烏瓜
92 - 酸つぱさの中に海あり青蜜柑
93 - ケント紙に水平線を描く爽気
94 - 小鳥来る始発電車の決まり事
95 - 残る蚊の死角より来るけはひかな

96 - 鳥渡る柩に入れし花の芯
97 - 行間のひろがるところ夜長かな
98 - 涙までかたまつてゐる鵙の贄
99 - 先端に夜明け生まるる冬木立
100- 橋渡るときに山茶花散りにけり

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「108句(苦)厄落とし・煩悩払い 1人句会」 第六弾」

あと少しである。去年の句も見ながらつくっているのだが、イマイチどころか、むしろ後退している気もする。
迷いがあるのかもしれないなあ。
誰が何と言おうとこれが私の句だ! 
と言い切れるものがない(当たり前か)。

私は高校時代に現代詩をつくっていた。ビジネス書の世界に入って詩はやめたのだが、
15年ほど前から再び作り始めている。

『おそらく、海からの風』(早稲田出版/絶版)
『あるいは、透明な海へ』(創風社出版)

詩は私の原点でもある。これを俳句に活かせないかと模索中でもある。
試みに、『あるいは、透明な海へ』には、ところどころ俳句を嵌め込んだ。
季語も意識して使った。来年には性懲りもなく第三詩集を出そうと思っている。

……というところで一気に後半へ。


71 - 舟虫の集まるときは無口なり
72 - 死者をたずねて浮いてくる水母かな
73 - 八月のらふそく波に消えてゆき
74 - ほうたるの光り真白き灰となり
75 - 大夕焼け象形文字は海の底

76 - 夕凪を胸を反らせて愛しけり
77 - 細き滝それぞれ風に折れにけり
78 - 処方箋シュレッダーに入れ土用東風
79 - 蠍座のわづかに小さき星月夜
80 - みづ色の海へ飛び出す夏燕

81 - ほのほにも濃淡のあり盂蘭盆会
82- 秋立つやビオラのごとき仏蘭西語
83 - 雁渡し森の木はみな異なりぬ
84 - とんぼうの進んで止まる時間かな
85 - この島にいくさのしるし赤まんま

86 - 盆の午たどり着くのは月の水
87 - 稲田より湯気の匂ひの立ちにけり
88 - 火の恋し月の欠けゆく音もして
89 - 原子炉ののつぺらぼうや法師蝉
90 - 秋蛍あのくらがりの中に浮く


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2016年12月30日 (金)

「108句(苦)厄落とし・煩悩払い 1人句会」 第五弾」

56 - ずぶ濡れのあぢさゐに色加はれり
57 - 浮き草に影のみを置き羽虫去る
58 - 蜘蛛の糸薔薇と言葉の間にも
59 - 孑孒のせはしげに生き消えてゆく
60 - 散るやうに校歌ひろがり立葵

61 - あいまいな軽さなりけり糸蜻蛉
62 - 蟬しぐれこゑがひかりになることも
63 - 一湾の風ふくらみて油照
64 - 広島忌ナイフ研ぐ水加へをり
65 - ヒロシマノマヒルハイツモセミシグレ

66 - 流木に火を放ちけり原爆忌
67 - 太田川には聖水が広島忌
68 - 骨すでに海に沈めり広島忌
69 - ゆるやかに退化する国酔芙蓉
70 - ネクタイの黒光りする原爆忌

原爆忌の句は、類想類句を恐れずに、どんどんつくるべし、と私は思っている。
それが日本人としての義務でもあるだろう。

一発で何万人、何十万人の人を抹殺する「兵器」を、人類が持っている。
核抑止力というけれど、使ってしまったらどうなるか。
このネットの時代、たとえば大都市に落ちたらそれだけで世界はフリーズするだろう。

事実、世界は核兵器廃絶を目指す方向へ動いている……はずだった。
ところが被爆国である日本が「核兵器禁止条約」に、米、ロなどとともに、「反対」の意思を示した。

もちろん日本だけが「唯一の被爆国」ではなく、兵器として使われなくても、
これまで多くの人が原水爆の被害に遭っている。
だが、原爆で多くの一般市民が死んでいった日本が、核廃絶をリードしなかったら、どこがするというのだ。

この国は、じわじわと退化していく。

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「108句(苦)厄落とし・煩悩払い 1人句会」 第四弾」

そろそろ初夏から夏である。真冬の今に夏の句を詠むのは、いまひとつ気合いは乗らないが、
これもまた、ひとつの試みでもある。
それに、夏は季語の宝庫だ。イメージも膨らむ。

1日早く始めたため、30日は少しお休み。
31日に入る頃から残り半分をつくりたい。

41 - 点滴の液面下がり冴返る
42 - 寒椿海に滅びてゆく定め
43 - 早春を首から提げて少女立つ
44 - 花冷に約束の地を用意する
45 - さくら散る音は火花の爆ぜるごと

46 - 海峡を雨越えパウル・ツェランの忌
47 - 蝸牛おもむろに空見上げをり
48 - うららかや眉なきひとの片ゑくぼ
49 - 百千鳥回覧板の揺れてをり
50 - つはものの混み合つてゐる竹の秋

51 - 雉一羽森の重さの乱れけり
52 - なめくぢら歩む限りは濡れてをり
53 - 菜の花を底辺に置き絵筆持つ
54 - 光もみ合うて流るる山葵沢
55 - ポケットにチェーホフを入れ修司の忌

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「108句(苦)厄落とし・煩悩払い 1人句会」 第三弾」

苦手な季節が終わり、これから春、初夏と続く。思いがけなく、いい句が生まれるといいのだが……。

26 - 考への沈んでは浮くかいつぶり
27 - 寒鴉なまなましさを抱きをり
28 - あるひはとおそらくの間節分会
29 - おのづから光に満ちていぬふぐり
30 - しらうをは死を前にして雪の色

31 - しぐるるや泣いて流れる葉のごとき
32 - たましひを並べるやうに雛の段
33 - 鞦韆や錆の残りし運命線
34 - 春雨やオルゴールには蝶の螺子
35- 再びと三度のあひだ涅槃西風

36 - 何かゐる海に小石を夏近し
37 - ほととぎす森にも海のあるらしき
38 - 蝶の舌するりと延びて揺れてゐる
39 - 叢雲と紙飛行機と強東風と
40 - 行く春を一枚ピンセットでめくる

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「108句(苦)厄落とし・煩悩払い 1人句会」 第二弾」

16 - 太陽も月も狂ひてジャニスの忌
17 - 寒暁や小鳥の気配ながれ来る
18 - 子午線を跨ぐ鯨の時間かな
19 - 侘助をたつたひとりで見てをりぬ
20 - 蠟梅は前頭葉を覆ひけり

21 - あやまちのやうに冬薔薇咲きにをり
22 - 冬菫過ぎてしばらく佇めり
23 - 人形の首を抜き差し寒固
24 - どこまでが夢いつまでが夢冬ざくら
25 - こめかみのしづかな疼き寒土用

少し調子に乗ってきたような……。
俳句は生活に根ざしたもの……という考えがあるが、私は「生活句」が苦手である。
歳時記の分類でも「生活」「行事」の季語はうまく扱えない。
それに、いわゆる「俳諧味」も、得意とは言えない。

だから12月、正月は、私の最も苦手な季節だ。
肩に力が入った句ばかりになるのも、そのせいかもしれない……。

とはいえ、「ホトトギス」最年少同人の阪西敦子さんに、こういう名言がある。

-------------
たぶん時間は取り戻すことができると思っていたのだと思う。過ぎた季節もまた戻ってくると。しかし戻ってくるものは似て非なるもの。うっかり間違うことのないように、先人たちは年忘や大晦日や除夜をおいた。泣いても笑っても今年は終わり。そう気づいて今年、残酷だけど親切な季節が、いっそういとおしい。
-------------

……さすが敦子さん。私などとは視点も視野も違う。

ただ、自然に託して心情を詠むことは、一方で俳句にはとても大切なのではないか……とも思う。
もっとも私の場合は、そういう句ばかりになるのが問題なのだが……。
右往左往はまだ当分つづきそうだ。

なお、16のジャニスの忌は、誕生日と亡くなった日を
ひっくり返して覚えていた。
なくなったのは10月で、秋の季語である。
生まれたのが1月……。

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2016年12月29日 (木)

「108句(苦)厄落とし・煩悩払い 1人句会」 第一弾」

1 - 年暮るる夢の数だけ嘘のあり
2 - 戸惑へるのち考へる十二月
3 - 酔ふごとに鏡のやうに年惜しむ
4 - しかじかのことを忘れて日記買ふ
5 - メビウスの帯ひと回り去年今年

6 -  野良犬の長き遠吠え淑気かな
7 - やや声の痩せたる母の初電話
8 - 初詣空に荒波見ゆるとも
9 - 虎落笛磧に石のひしめけり
10 - たとふれば落武者の声ふくろかな

11 - 寒に入り海になりゆく青き花
12 - 火葬場にかほそきけむり寒の来る
13 - 風花や消えて生るるいのちあり
14 - 冬田にはところどころに水の色
15 - 悴みて人の死送る鄙の道

……うーん、いまひとつ調子に乗らないが、
二日で108句つくることに意味を持たせることにして、
これはこれでよしとする。

この句は、拙Facebookでも、ほぼ同時にアップします。

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108句少し早いが始めます!

除夜の鐘には少し(かなり)早いが、「108句(苦)厄落とし・煩悩払い 1人句会」を始めます。

老け込むし(笑)、煩悩はそれなりにあったほうがいいと思うが、災厄はご免である。ひたすらに疲れるだけだ。少しでも厄落としできれば、この「108句」にも意味がある。

あと丸2日。まず、今頃の年末の句から始め、新年、冬、早春、春、夏、秋……で、
再び冬の句で終わらせたい。
たぶん今が真冬だから、冬の句が多くなるはずだ。

    *

私の所属している結社「銀漢」は、写生を中心に置き、どちらかと言えば「人事」を詠んだ句が多いと思う。

だが私はかつて現代詩を書いており、今でも少し書いているせいか、写生を重視しつつも、「よくわからないけど、まあいいか」という句をつくりたがる。自然や動植物の季語が比較的多いと思う。今年も大筋はその方向で進めるつもりだ。

    *

有馬先生の「天為」の岸本尚毅さんがかつてこう言われた。

-----
俳句はすべて説明がつくようなものではなく、「よくわからないけど、いい」というもの。
-----

「俳句甲子園」の審査員で、開成高校のディベートの強さに触れたときのものだ。
私もこの108句で、「なんだかワケ分からないけど、いいねえ!」というものを
5句ぐらいは出したいものだ。
一人黙々とやっているのは淋しいものがあるので、
興味のある方は、「10番の句、いいね!」などと参加していただくと嬉しい。

なおこの暴挙(?)は、拙Facebook拙ブログでも同じものを掲載している。

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2016年12月28日 (水)

厄落とし108句へ向けて用意開始

108句厄落とし 1人句会を30日、31日に行なうべく
何句かつくりはじめた。

実際にアップするのは最後の2日だが、
やはりその前に、10でも20でもつくっておいたほうが
スタートダッシュも効く。

今日は10句ぐらいにしておこう。
勝負は明日からだ。……と気合いを入れずにリラックス。



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2016年12月27日 (火)

今年も「厄落とし108句」、やります。

昨年12月30日から31日深夜まで、

「108句(苦)厄落とし・煩悩落とし 1人句会」というものをやった。

半分近くは既出の俳句に手を入れたものだったが……。

そのとき、「来年は新作で」と書いてしまった。

純粋な新作で、2日 108句は 頭がおかしくなりそうだし、

出来たとしても「駄句」ばかりになりかねない。

そこで今年は、「最低80句新作」を目標にしたい。

昨年の句とはかぶらないように注意するが、

そこはお許し願いたい。^^);

このなかから10句ぐらいでも、「いいじゃん!」というものが

生まれればいいのだが。

29日からつくりはじめ、それなりに推敲しながら、

20句ずつぐらい6、7回に分けて

アップしたい。一句ずつアップするとかなりライブ感が出るのだが、

うっかりすると同じような句をアップしてしまいそうだ……。

今年もこの「一斉アップ方式」をとりたい。

請う、ご期待……かな。

なお、この108句は、私のFacebookでもアップするつもりだ。


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2016年12月24日 (土)

[私史……私とビジネス書 ⑥]

『手にとるようにわかるシリーズ』を中心に、かんき出版は、年間売上げもほとんど倍々ゲームのように大きくなった。大げさでなく当時は、「出せば売れる」状態だった。目標にしていた日本実業出版社を超えたとは思わないが、まったく独自の路線で対等にやり合えるまでにはなったと思う。

私が43歳、入社13年目には新卒社員を4人も採用した。それまでは中途採用が多かっただけに、当時のかんき出版の意気込みのようなものを感じる。社員も30名を超え、編集部も10名近くになった。

だがここが私の悪いところで、「任せる」ことが、ものすごく下手だった。10人近い編集部の部長なのだから、みんなを教えリードしていく立場である。しかしその頃の私は悲しいほど幼かった。「取締役編集部長」という肩書をいただいている以上、編集部員をコーチし、管理する責任があったにもかかわらず、私はまだ、「現場で泥まみれになっていたい」などと子供のようなわがままを言っていた。

それに、そもそも編集などというヤクザな仕事をめざすものは、多くが管理することもされることも苦手である。私など、その典型だっただろう。「管理する」ではなく「コーチする」と考えれば、ずいぶんとスタンスも違ってきたのだろうが、当時の私にはそういう「しなやかさ」が決定的に欠けていた。

     *

ストレスはどんどんたまっていき、とうとう出社できなくなった。軽い「うつ病」である。実務は自宅でこなしていたが、編集部員のスキルをアップさせるという最大の仕事を半ば放棄してしまった。そして1998年、45歳のときに辞表を出すことになる。長い編集者生活のなかで、最も悔いの残ることだ。

辞めた辞めないの後悔ではない。一編集者としては、会社を出てフリーになることで、たくさんのことを身につけることができたと思っている。要するに、編集部の様々な問題を放り投げて辞めてしまったことへの後悔である。辞表を出すにしても、残った者のことをきちんとしてからにすべきだった……。

あれからもう、18年が過ぎた。私はずっと「フリー編集者」として、どの組織にも属さずに仕事をしてきた。悩んだり苦しんだりもした。いくつかのトラブルも経験した。だが幸いなことに、「あいつも、もうダメだ」と言われることなく充実した仕事を続けてきた。

仕事をするとき、いつも出版社にひとつのお願いをした。「できるだけ若手編集者を担当にして下さい」ということである。編集者の感性はすぐ鈍る。親子ほど年齢の違う編集者と仕事をすることで、私の賞味期限も少しは延びた思う。

私は自らの持っているノウハウを若手に話しながら仕事をした。彼らに教えられもした。自分の古さを痛感したことも多い。だがそうやって教えたり教えられたりしながら、何とか今日までやっている。もしかしたら私の拙いノウハウは、一緒に仕事をした若手編集者に少しは受け継がれているかもしれない。その若手から、さらに形を変えて若手へ――。そうであれば、非常に嬉しいことだ。

4年前には念願の「四国移住」も果たした。だいぶあちこちにガタは来はじめたが、動けて、頭もクリアな限りはこの仕事を続けたいと思う。

2017年2月。私は64歳になる――。(了)

PS.
ここまでに書いたことは、20年も前のことである。しかも「私史」と断っているように、あくまで私の歴史中心だ。ビジネス書はその後、様々な出版社が参入し、今のように「ビジネスマン相手なら、どんなテーマもビジネス書」という時代になった。この20年間の歴史を誰かが書いていただくと、ちょっとした「通史」になるかもしれない。

私たちの世代のあと、ビジネス書を大きく飛躍させたのは、今の30代~50代の編集者、営業マンたちだろう。そして電子化の波のなか、多くの若手出版人が「次」を模索し続けている。私も微力ながら、次の時代の出版界に貢献できればと思っている。

2016年12月23日 (金)

私史……私とビジネス書  番外編

私がかんき出版に入社した頃は、原稿の大半はまだ「手書き」だった。そこに手を入れていく。書き直すこともあったが、それも手書きだ。私の必須アイテムはモンブランの太字の万年筆だった。

この「手書き原稿」を組版・印刷現場では「活字」にしていく。当時はまだ半分が「活版印刷」だった。植字工の人たちが、鉛の活字を1文字ずつ拾って組み上げていく。だが、ここにデジタル化の波が一気に迫っていた。

まず「電算写植」だった。鉛の活字を拾って組み上げるのではなく、コンピュータ画面でつくっていく。コンピュータを使うのなら、手書き原稿ではなくコンピュータで読み込めるようにデジタル化したほうが手っ取り早い……誰もがそう考える。ちょうどその頃、「書院」「OASYS」などのワープロ専用機が安価で入手できるようになっていた。私は「OASYS」を確か20万円ほどで購入し、「手書き原稿」を辞めた。

まだまだ、「そういう仕事はアシスタントに任せろ」と言われた時代だった。だから私は、「手書きよりワープロのほうが早く書ける」ことを証明しなければならなかった。

しかし、ワープロ専用機のデータはデジタルではあっても、そのワープロ独自のデータであって、電算写植のコンピュータでは正確に読み込めない。

一方で高価なコンピュータではなく、パーソナルコンピュータ(パソコン)も1990年あたりから比較的安く買えるようになっていた。ワープロ専用機のデータをパソコンで読み込めるようにして、パソコンを使って編集してデータをつくれば、電算写植の現場でもデータを活用できる。最初の頃はデータ処理の専門業者に依頼しないとパソコンで読めるデータにはならなかったが、「DOS恋」というアプリケーションが出て、たいていのワープロ専用機のデータをパソコンで読める文字データに変換できるようになった。

    *

ちなみに当時のパソコン(MS-DOSパソコン)は現在のようにハードディスクは内蔵されていなく、ワープロソフトや表計算ソフトなどの「アプリケーションソフト」は1枚のフロッピーディスクに収められていた。フロッピーディスクの容量は、約1.2メガ(ギガではない)である。

パソコンが出始めの頃、フロッピーディスクドライブは、2つあった。アプリケーションソフトをAドライブに入れると、パソコンがそれを読み込んでソフトが起動し、パソコン内のメモリ(仮想C)で仕事をしてくれる。つくったデータはもうひとつのフロッピーディスクドライブ(Bドライブ)に記録する。今でもWindowsパソコンのメインドライブは「C」で、フロッピーディスクドライブ(もはや貴重品になってしまった)を外付けすると「Aドライブ」になるのは、その名残だ。

通常、ハードディスクは「外付け」で、50メガ(ギガではない)のものが5万円以上した。1995年過ぎには内蔵ハードディスクドライブを搭載したパソコンが出始めたが、容量は300メガとか400メガだ。通信速度も現在とは比較にならないほど遅い。1枚の画像を送信するのに何十分もかかった。動画の送信などは、できたとしても何日もかかったかもしれない。

それでも、当時はまだ珍しかった「パソコン通信」を始めたのが1990年。NIFTYの会員数が全国で「5万人」の頃だ。国民のほとんどがインターネットを使っている現在とはまったく世界が違う。インターネットが普及し始めたのは1997年ぐらいからだろう。

このパソコン通信のおかげで、私には多くの友人・知人が増えた。

    *

今では出版界では当たり前に使われているMacは素晴らしいパソコンだったが、高価すぎたのと、Mac用のアプリケーションソフトが少なく、仕事に使うには難点が多すぎた。印刷現場もまだMacに対応できていなかった。ところが1995年ぐらいからだろうか、組版の現場でも電算写植に代わってMacが導入されるようになった。いわゆる「DTP(デスクトップパブリッシング)」の本格的な幕開けである。

多くの組版、印刷現場がMacを導入するようになると、まずイラストレータやデザイナーが次々とMacを使うようになった。Macを使ってページをつくっていく「DTP業者」も増えた。そうなるとMacの価格も安くなり、ますます普及していった。そして、編集者も手軽にMacで原稿をつくる現在の姿になるのに、そんなに時間はかからなかった。

2016年12月22日 (木)

私史……私とビジネス書 ⑤

[私史……私とビジネス書 ⑤]

私が在籍していた間に「手にとる」は20冊ほど出たはずだ。ほとんどが、発売半年ほどで5万部を超えた。そして1995年――。windows95が発売され、空前のパソコンブームがやって来た……。

実はその3年ほど前、『手にとるようにパソコン用語がわかる本』をつくっていたのだが、理工書のコーナーに置かれたりと、売れてはいたものの、他の「手にとる」ほどではなかった。まだパソコンが行き渡っていない時代だった。

私は遠くない将来に、この「パソコン」というものが不可欠のツールになると信じ、新しいパソコンが出るたびに秋葉原に見に行った。だが私がパソコンの入り口で四苦八苦している頃、日本実業出版社ではいちはやく仕事のデジタル化を進めていた。

この「編集作業のデジタル化」については、次回「番外編」として書きたい。

    *

ともあれこの「手にとるようにパソコン用語がわかる本」本が、1995年から驚くように売れ始めたのである。すぐに「手にとるようにパソコンがわかる本」を出し、これが大きなヒットになった。さらに「手にとるようにインターネットがわかる本」も出した。

当時は、マルチメディア、通信・ネットワークなど、今では当たり前になっていることが、次々と話題になった。私はこれらには、ほとんど手を出したと思う。ただし、先行出版社より、2、3カ月遅れて出した。「もうブームは終わりか……」という頃に出版され、それまでの本より売れたのである。

これは、すでに出た本を徹底的に研究し尽くした結果でもある。しかし「パクリ」はしたくなかった。「似ているけど、ここまで分かりやすくされたら文句も言えない」というぐらいのクォリティにしたつもりだ。それと、この頃にはすでに「手にとるようにわかるシリーズ」は、「出せば売れる」と、ほとんど神話化していた。

むずかしいところは変に説明せず、「要するにこういうことです」と乱暴なまとめ方もした。当時は、「片山のつくる本には1ページにひとつは〈そもそも〉や〈要するに〉が出てくるから、すぐわかる」とも言われた。

図もたいていが、本文で説明したことを「要約」したものである。本文で8割説明し、残りは図で……というものではなかった。かんき出版に入社した当初から目指していた「誰にでもわかりやすい、読者に寄り添ったハウツー書」というコンセプトが、この「手にとるシリーズ」で開花したと言えるかもしれない。

このあたりは拙著『職業としての「編集者」』(H&I)に詳しく書いた。お読みいただければありがたい。  (つづく)

2016年12月21日 (水)

私史……私とビジネス書  ④

[私史……私とビジネス書 ④]

消費税が導入された年に消費税関係の本を出版せず、ファミコンの本をつくるなど、やや回り道はあった。だがその頃のかんき出版には、何よりも「若さ」があった。現場では私が最年長に近かったのだが、まだ35,6歳だった。

バブルの頃には不動産投資の本がたくさん出たのだが、かんき出版はだいぶ遅れて出した『不動産投資は、まだまだ儲かる』。これが売れたものだから『やっぱり不動産投資は儲かるぞ!』。これも売れたのでので、しつこく『不動産投資は、まだまだ儲かる』――。「メモ」や「手帳」の本も出して、そこそこ売れた。だが、バブルが弾けると、それら「中ヒット」の本は多くの本の中に埋もれていった。

そんなとき、日本実業出版社から「しくみシリーズ」というものが出た。1990年あたりだ。『経済のしくみ』『金融のしくみ』……A5判の1テーマ見開きで半分は図というもの。当時としてはかなり斬新なつくりである。そして売れた。しかし、いい本であることは確かだが、文章はややむずかしい、図表も今ひとつわからない。

当時の日本実業出版社の営業部は「最強」だっただろう。編集部も凄かったが、営業部も同じぐらい凄かった。ビジネス書を書店に認知させたのもこの営業部だ。「しくみシリーズ」も内容も斬新だっただけでなく、営業の力もあって売れたと言ってもいい。当時の日本実業出版社は、編集と営業の両輪が噛み合い、中経出版が伸びてきたとはいえ、まだ盤石だった。

私はこの「しくみシリーズ」を超えたかった。しかし、「風が吹いたら桶屋が儲かる式に、たとえば銀行金利が上がると○○になる――と、ざっくり経済や金融を簡単に解説して下さい」と執筆依頼に行くと、どの経済評論家も「そんな軽い本は書けない」とつれなかった。そこで、ある会合で知り合った編集プロダクションの人に、「書けませんか」と軽く投げてみた。すると「やりましょう!」。

結局この『手にとるように「経済」のことがわかる本』は、経済のことを知らないライター集団が書いたのである。その「ライター」の中には私も含まれる。監修をお願いした三菱総研の牧野昇先生も、「こんな荒削りじゃあ、監修者になれないよ」と難色を示しつつも、「内容は斜め切りだがわかりやすい」といった願ってもない前書きを書いてくださった。1991年のことだった――。

    *

今でこそ、空白の多いスカスカの本が多いが、この『手にとる経済』は当時としては、おそろしくスカスカだった。読んだ人の何人かは、「こんなの売れるのか」と言った。だがこれが、牧野さん効果もあり、あれよあれよという間に10万分を超えたのである。

つくった私としても、出来上がったときから手応えはあった。当時としては「これ以上ない分かりやすい」本をつくったつもりだ。私はそれまでのビジネス書はまだまだむずかしいと思っていた。だからあえて情報量を減らしもした。むずかしいことをいくらやさしく書いても、限界はある。だったら最初から書かないほうがいいという考えだ。

この機を逃してはならない――営業部からは、どんどん「手にとる」をつくってくれとの注文が来た。だが読者が「これは分かりやすい!」と思ってくれなければ、売れない。むずかしい本を出して最初は売れても、粗製濫造は自分の首を絞める。だから私は、それまでのハウツー書づくりと同様に、『手にとる』も、出来上がった原稿をかなり手直しした。図も私なりに練り直した。

私は編集部員の力を借りながら、「金融」「税金」「政治」……と3、4カ月に1冊ペースで作り続けた。若かったこともあり、図や見出しなどいろんな冒険もした。当時は東京郊外の小金井市に住んでいたのだが、会社には私の寝袋があった。(つづく)

2016年12月20日 (火)

私史  私とビジネス書 ③

[私史……私とビジネス書 ③]

当時の編集部は私とほぼ年齢が同じの男性と、アシスタントの女性だけ。営業部も3人ほどしかいなかった。中経出版も零細だったが、それに輪をかけて零細な出版社だった。

ビジネス書に舵を切ったといっても、当時のかんき出版のメインはハウツー書や実用書ではなく、企業ドキュメントなどが中心だった。

一方私は、「中経出版の後追いか」と言われたりもしながら、経理や経営分析などの地味なハウツー書を編集していた。私には中経出版時代から「日本実業出版社」を追い越すという夢があった。ただ、徹底的にトップランナーである日本実業の本を研究した。

「日本実業出版社の視点はユニークだが、ここをこう変えればもっと分かりやすく、読みやすくなる」

最初の3年ほどはその試行錯誤だった。古巣の中経出版はヒット作を次々と出し、日本実業出版社の背中が見えるところまで成長していた。私のベースは中経出版だから、つくる本は「中経+日実」といった本になる。私は何とかしてそこに、「片山ならでは」の独自性を付け加えようとしていた……。

    *

私が入社して1年目ぐらいに、廣済堂出版の営業部長だったT氏が半ばスカウトされた。T氏は、廣済堂編集部のHさん(女性)も一緒に連れて乗り込んできた。Hさんの得意分野は、当時一世を風靡していた丹波哲郎の「霊もの」である。

こうして編集部は、境社長のつくる企業ドキュメントもの、私のつくるハウツー書、Hさんのつくる霊もの……と、カオス状態となった。しかも私が入社して3、4年目ぐらいで、編集部員が全員辞めてしまった。廣済堂出身の営業のT氏も辞めた。

八方ふさがりで私も辞めようと思ったが、ある業界の先輩にこう言われた。

「毎日アリナミンを飲んで、豆腐を食って、3年死にものぐるいでやってみろ。そうしたら、お前の編集部がつくれるかもしれないぞ」

    *

新人が入って辞めたり……といろいろ紆余曲折があったが、編集部も形になってきた。営業部も現社長の齋藤氏が入社し、若手中心のエネルギッシュな部隊ができてきた。あとは、10万分を超えるビッグヒットを出すことだった。

当時はインターネットもない。出版社が全国の書店に「認知」されるには、10万部の本が必要だと言われていた。3万部の本が3冊ではなく、10万部……。それまでも、2、3万分の本は出ていたが、それだけでは書店での基盤もつくりづらい。それでも編集部も営業部も若返ったかんき出版は、徐々に「出版社らしく」なっていった。
(つづく)

私史 私とビジネス書  2

[私史……私とビジネス書 ②]

今日は、昨日の続きである。4回ほどの連載になるかもしれない。ビジネス書草創期の昔話でもあるので、さらりと。

   *

30歳になってすぐ、私は中経出版を辞めた。ものすごくわがままで、「少し休みたい」程度のものだった。独身で気軽だったせいもあるだろう(当時は30歳で独身だとヘンに見られた)。3月末日で退職し、5月の連休明けに、バイクで北海道にツーリングに出かけた。日程は1カ月! これといったルートを決めず、ブラブラしてきたかった。

実際、走ったコースはいわゆる観光ルートとは大違い。「この道いいなあ」と思ったら、何往復もしたり、雨の日はユースホステルで本を読んで過ごしたり……。

それまでは、今日のことを悔やみ、明日のことを思い悩む日々だったのが、朝に宿を出て、昼頃に宿泊地を予約し、そこでは「明日はどこまで走ろうか」ということだけを考える――そういう生活を続け、体に溜まった澱(おり)のようなものが少しずつ消えていくのを感じながら、北海道をほぼ1周した。知床にも行った。離島にも行った。

帰ってからしばらくは知り合いの編集プロダクションに出入りしたり、ワケの分からない怪しい出版社に入社し2カ月で辞めたりもした。そしてほぼ1年後、「かんき出版」に入ることになる。かんき出版は、光文社を興した神吉晴夫氏のつくった会社だが、神吉さんは設立すぐか、設立準備中に亡くなられてしまった。「神吉晴夫が出版社をつくる」ということで支援する人もいたそうだが、亡くなったことでほとんどが引いていったとも聞く。

設立3年ぐらいは、光文社のカッパブックスと同じ形式の新書をつくっていたが、神吉晴夫という希代のアイデアマンのいない出版社である。ほとんど売れず、危ない状態になった。そこに再建者として乗り込んできたのが、今の最高顧問・境健一郎氏である。境氏も最初は新書をつくっていたが、売れない。そこで3年目ぐらいに、「我々はビジネスマンだ。ビジネス関連書ならつくれる」と、大きく出版傾向を転換した。

私が「新書も悪くないかな」と面接に行ったのは、そんなときだ。1983年だったと思う。私は、かんき出版がビジネス書に方向転換をしたことを知らなかったのである。結局私は、中経出版と同じように、ビジネス書をつくり続けることになる。 (つづく)


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私史  私とビジネス書 1

今はKADOKAWAホールディングスに入ってしまったが、私が40年前に卒業して何とかもぐり込んだのが、「中経出版」である。当時は、従業員数名の零細出版社だった。中経出版は、もともと「中小企業経営研究会」という、中小企業経営者向けの直販雑誌「近代中小企業」をつくっていた会社の編集部が分離してできたものだ。中小企業経営研究会の「中」と「経」を取って、「中経出版」……。私が入社したのが、設立5年目ぐらい。「雑誌ばかりじゃつまらないから、そろそろ単行本でも……」という時期だった。

私はその「近代中小企業」編集部にはいった。

今は書店の書籍の多くを「ビジネス書」が占める。だがその頃はまだ、ビジネス書というカテゴリーが生まれたばかり。書店にも「ビジネス」というコーナーはなく、法経書(法律経済書)に分類されていた。

私は文学部出身である。卒業するまで経済や経営には、まったく無関心だった。法律や税務も知らなかった。だから最初のうちは、仕事もろくにできなかった。取材で経営者の人とお会いしても、ちんぷんかんぷん。それでも「文章を書くのが好き」という一点だけでやってきたように思う。

「これからはビジネス書づくりに専念する」――と、それまで細々と書いていた詩や短歌も、すっぱり辞めた。自作の詩集をまとめたり、俳句をつくったりするようになったのは、ここ10年ぐらいのことだ。

   *

当初は「やさしい経理」「やさしい経済」といったものが中心だったのが、その後、「ビジネス書」は、「ビジネスマンが読む本なら何でもビジネス書」というジャンルにまで膨れあがった。私はその真っ只中にいたのである。そして、ビジネス書が市民権を得ることに、少しは貢献できたと思っている。

そのあたりのこと、それからのことを、昨年上梓した『職業としての「編集者」』に書いた。

いまでは、いっぱしのビジネス書編集者として生きているが、これもたまたま入社できたのが中経出版だったからだ。もし、釣り雑誌の出版社に入っていれば、今頃は「釣り」のプロになっていたかもしれない。

人生とは、わからないものだ。


     選択肢ありやなきやの虎落笛   一行




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2016年12月18日 (日)

久しぶりに片山由美子

以前、片山由美子の俳句を一生懸命読んでいた頃があった。
とにかく、堅牢でかつ新鮮。
こういう句を詠みたいと思ったものだ。


しかし、その後少し気持ちに変化があったのか、
めちゃくちゃでなければ、もう少し跳んでもいいのでは……
と思うようになった。
たぶん、俳句甲子園などを経てきた若手俳人の句を
たくさん読んだからだろう。

もちろん若手俳人の句には、疑問符をつけたいものも多い。
しかし、「文芸」は、こういうふうにして進化するのではないか、
そう思ったのである。

それでも片山由美子は、いい。
うまい! と言いたくなる句が多いのだ。


    月の海しづかに育ちゆく真珠   由美子


    階段を下りくる音の冷ややかに   由美子


    冬ざれやピアノに聖夜めくカバー   由美子



いずれも、静かで新鮮だ。
もともと藤田湘子の弟子だったのだから、
もっと現代俳句に近い句を詠んでもいいと思うのだが、
片山由美子なりに、俳句の原点に返る姿勢があるのだろう。

まだまだ、何がいい俳句かはわからないが、
マイペースで「一行の俳句」をつくりたい。


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2016年12月17日 (土)

数え日

今年もあと2週間少しになった。
1年で大きく体調を崩し、7、8kg痩せた。
ダイエットではないので、落ちたのは大半が筋肉だ。

だから、ものすごく疲れやすくなった。
来年はなんとかリカバリーしたいが……。


    数へ日やぴりとこめかみ疼きをり   一行


    生き方を考へてみる木の葉髪   一行




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2016年12月11日 (日)

5カ月ぶりの東京

7月以来の上京だった。
この夏、大きく体調を崩し、体力がガクンと落ちたせいか、
東京の刺激はきつかった。

圧倒的な「人」の数。目からの情報量の多さ。
そして24時間休まない喧噪……。
まるで脳が茹だっているようだった。


   年の暮前頭葉のちぢみけり  一行


   東京は東京のいろ師走かな   一行





松前に帰って、いっぺんに疲れが出てきて、
2日丸々寝込んだ。
この体力低下では、気軽に上京もできない。
なんとも憂鬱な師走である。


   ままならぬことの増えをり虎落笛   一行



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2016年12月 6日 (火)

東京は急に寒くなった

今日で上京6日目。さすがに疲れはピーク。
狭いビジネスホテルでの連泊は、疲れが翌日に残る。
以前は10連泊などしていたが、
5連泊が限度かな……。

上京した頃は割と暖かだったのだが、今日の午後から
急に冷えてきた。
明日は最低気温5度だとか……。

上京した1週間ほど前は銀杏並木がきれいだった。
しかし今日の北風でほとんど落ちてしまった。



     道走る落葉の先に道つづく    一行



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